安方橋

写真1:安方橋 1938年(昭和13)

安方橋 1938(昭和13)年

  県道十和田三戸線の宇藤坂から文治屋敷地区へ向かう猿辺川に架かる安方橋は、土木技術の観点から青森県の近代化遺産に指定されているアーチ型の永久橋です(『青森県近代化遺産総合調査報告書』2000年 青森県教育委員会)。橋長32メートルのうち中央20メートルがコンクリート製で左右の端支間は4本主桁単純桁、幅員5.5メートルの安方橋が落成したのは、昭和13(1938)年のことでした。当時の橋は鉄筋コンクリート造りが多く、安方橋は非常に珍しい橋梁でした。

  安方橋の側にある説明板に「安方」の由来について、次のように説明されています。

安方橋は伝えられるところによると、青森市安方町の「安方」を取ったという。この橋付近の地名は文治屋敷と宇藤坂。文治は公家で氏名は宇藤(善知鳥)文治安方という。この文治がえん罪を被り、青森市の善知鳥に流され、以来、青森の開祖となる善知鳥・安方にちなみ、安方の名がついたといわれる。

  昭和12年12月15日付『三戸新聞』は「本県最初のモダン橋」という見出しで、安方橋の落成・開通の様子を次のように紹介しています。

三戸、猿辺、野沢、戸来の各町村をつなぐ三戸地方の重要産業道戸来・三戸停車場線、猿辺川(三戸町と猿辺村の境)に架設してあった安方橋は、一昨年九月の水害で流失して以来、架け替えされず地方民に不便を与えていたが、県では関係町村の切なる要望により、去る7月工費1万4千円を以て、穂積組に請け負はしめ、鋭意その工を急いでいた所、いよいよ今回竣工するに至ったので、去る12日午前11時から現場に於いて落成開通式を挙行した。来賓は県官並びに地方関係町村長、町村会議員、有志等約三百名で、型の如く式を終えてから協賛会主催の祝賀宴を催し、盛会裡に散会した。なお竣工した安方橋はアーチブリッジで本県では最初のモダン橋である。

  「東奥日報」も昭和12年12月12日付で「由緒深い安方橋竣工 五・三戸地方産業の開発促進に貢献せん」という見出しと完成した安方橋の写真を大きく載せて、落成式の模様を伝えています。また、三戸町長松尾節三「融和を図り 地方振興に邁進」、戸来村長佐々木傳次郎「産業道の完成で輸送の円滑を期す」、猿辺村長和田弘「此の機に乗じ発展を望む」、請負者の穂積氏「苦しんだだけ感激深し」等の談話を掲載し、安方橋完成の歓迎振りを紹介しています。要約すると、次の通りです。

昭和10(1935)年の夏に襲った大豪雨は、濁流満々として猿辺川の農耕地を浸食し、農作物に多大な被害をもたらしました。木橋であった安方橋は流失し、三戸町、猿辺村、野沢村、戸来村の一町三ヶ村を結んでいた戸来ー三戸停車場線は車馬の通行が不能となり、日常生活に支障を及ぼします。
三戸町と猿辺村が中心に陳情を繰り広げると、県は2年後の昭和12年7月、橋梁架設工事に着手、総工費1万4千円をかけた安方橋は青森県のアーチブリッジの先駆けとなります。工事は三戸町の穂積組が請け負いますが、戦時中だったため鉄筋高騰や応召者による人夫不足を招き、一時完成が危ぶまれます。
安方橋が落成した昭和12年12月の「東奥日報」には連日、次のような記事が掲載されています。「南京最後の日」「南京陥落を期して県下に祝勝の催し」(12月8日付)、「快心の南京空襲」(12月9日付)。また、安方橋落成の記事が掲載された12月12日付の一面には「今ぞ、南京陥落 感激の歓呼」の記事と、青森市や弘前市などの児童が提灯行列や万歳三唱をしている写真が掲載され、安方橋の架け替え工事が行われていた当時は、日中戦争の渦中にあったことがわかります。

写真2:安方橋(2008年秋)

安方橋(2008年秋) 撮影:小泉 敦

  このような戦時非常事態という状況にもかかわらず、安方橋は八戸土木事務所長阿部技師の陣頭指揮のもと、落成予定日を一ヶ月以上も上まわって完成します。優雅端麗でしかも堅牢無比な橋として後世に名を残した安方橋は、将来的に三戸ー戸来線と金ヶ沢ー三本木線の県道をがつなぐ南部地方における重要産業道路に発展する可能性を秘めていました。

      [広報さんのへ2009年4月(No.572) 三戸近代史 (小泉 敦)]

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更新日:2019年12月10日