梅泉橋

写真1:梅泉橋(昭和7年10月)

昭和7年10月に初めて架けられた梅泉橋。正面には旧泉山館跡、馬淵川には渡し船2艘が見える。(「写真で見る三戸町の百年」P55 三戸町教育委員会所蔵)

  梅内と泉山地区の架け橋ともいえる梅泉橋の下を流れる馬淵川は、昭和初期まで渡し船を利用して行き来する要地でした。その名残が現存する「大字泉山字船場ノ上」という地名にありますが、ここに初めて橋が架けられたのは1932(昭和7)年10月のことでした。

  県道名久井線に架かる梅泉橋は以前から洪水で馬淵川が氾濫するたびに流失し、地域の生活に甚大な影響を与える、生命線ともいえる重要な橋でした。  1932(昭和7)年10月9日付「東奥日報」は梅泉橋の完成を、次のように紹介しています。

留崎村字梅内より同村泉山村に通ずる梅泉橋が村会において決定、新橋工事中の所、十月六日午後一時、県より斎藤技師の検査をうけ目出度く合格するに至りたるため、これが落成開通式を今月十四日に執行することに決定した。

  湊工業株式会社が請け負った梅泉橋の新築工事は、6月11日に着手されて9月30日に竣工、10月14日午前10時に開通式が行われます。当日は新橋に祭壇が設けられ、神主の山崎命助、山崎武雄、袴田直蔵の進行のもと、斎主が祝詞(のりと)を読み上げて玉串を奉呈。その後、工事係員、長老、家族参列者が玉串を捧げました。次に、中屋鋪留崎村々長が式辞を朗読、続いて鈴木八戸土木管区長、松尾県会議員、諏訪内三戸町々長、谷内向村々長、小笠原留崎耕地整理組合代議員が祝辞を述べました。最後に、幣帛(へいはく)、神饌(しんせん)、昇神、神供及び祭具を取り去って渡橋式に移り、泉山の大神楽(かぐら)を先頭に神官、県官、村長、工匠、長老、各種団体、一般参列者の順に渡り初めを行いました。長老は泉山の佐々木キヌ(86)、久手浅吉(84)、佐々木カネ(84)、伊藤忠八(82)、山下金蔵(81)、藤川タマ(76)の6名でした。

  当日は秋晴れの好天気に恵まれ、近郷近在より数千名の観衆が集まりました。渡橋式終了後には泉山小学校で落成祝賀会が行われ、中屋鋪村長の開会の挨拶に続き、工事監督の長根喜助氏から報告、中屋鋪村長から功労者の堀江工業株式会社に対する感謝状と賞品の授与、鈴木専務取締役、松尾県会副議長、武藤八戸毎日新聞社長から謝辞の言葉がありました。その後、祝宴に入り、泉山青年会員による剣舞、目時村の獅子舞や手踊りが披露され、午後六時、盛会裡に閉会しました。夜は提灯行列が行われ、泉山小学校校庭に集合して万歳を三唱、散会したのは午後十時を過ぎていました。

写真2:梅泉橋(1940(昭和15)年9月)


梅内字村中方面から撮した増水し、流されそうになった梅泉橋。当時は木橋であったことがわかる。(「写真で見る三戸町の百年」P129 三戸町教育委員会所蔵)

  1940(昭和15)年9月、馬淵川の洪水によって住谷橋が流失し、三戸町と向村の交通が遮断されるという惨事がありました。この事態に際し、留崎村消防団は梅泉橋を死守するために、次のような行動をとります。

「この橋を流しては、それこそ三戸地方の交通運輸が杜絶するんだ」と梅泉橋(泉山ー梅内間)の死守を決意し、「梅泉橋を流すな」と橋上を追い越す奔流と闘いながら暗夜良く橋上に土俵を積み上げて流失を防ぎ得たことは実に留崎村警防団員の活動の賜で、今日不便ながらも梅泉橋を渡って三戸町と三戸駅が連絡し得ていることは、地方のため不幸中の幸いといってよい (昭和15年9月8日付「三戸新聞」)

写真3:梅泉橋(2009年)

梅泉橋(2009年)

駒木方向より城山方向を望む

  1968(昭和43)年12月に新たに建造された梅泉橋は、それ以来現在に至るまで約40年間、人とモノ・情報を運ぶ架け橋となっています。

      [広報さんのへ2009年7月号(No.575) 三戸近代史 (小泉 敦)]

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更新日:2019年12月10日