住谷橋

写真1:住谷橋(2009年)

馬淵川に架かる住谷橋(2009年)

  現在の県道三戸ー南部線の馬淵川に架かる住谷橋は、昭和53(1978)年に三戸町梅内蕨久保~南部町門前までの「三戸バイパス」が全線開通するまでの間、国道4号線の重要な橋でした。
  昭和13(1938)年5月25日付「東奥日報」 は、明治44(1911)年11月に架け替えした住谷橋が橋脚の腐朽が目立って車馬の通行が危険になり住民が架け替えを熱望したため、三戸土木事務所が県へ災害復旧工事を申請することになったと伝えています。

  住谷橋は県下でも交通量が多い橋として有名で、昭和13年6月20日に住谷橋近くの向消防組第二部屯所で交通調査が行われました。その結果、歩行者2,102 牛馬45 自転車 904 荷車16 馬車51 自動車167という交通量に達したため、三戸土木事務所では経済的見地から三戸町の道路舗装と住谷橋の架け替えを県に要望します。
  ところが、翌14年5月7日午後4時頃、住谷橋は橋脚の自然腐朽で大破損し、車馬の通行が出来なくなります。5月10日付「三戸新聞」は、その時の様子を次のように伝えています。

「バスやハイヤーは橋の袂(たもと)まで運行し、橋から駅までは徒歩で連絡しているが、トラックや荷馬車等はやむなく泉山や馬場を迂回し連絡している・・・住谷橋は三戸町と向村を繋ぎ三戸以北と以南岩手県及び以西秋田県との交通運輸に重大な役割を持つ橋であるが、明治44年11月に架け替えしてより28年の長い間架け替えせず一時的応急措置として修理を加えて来たため、既に今日あるを予想した三戸地方町村では、流失して大破して一時的でも交通が杜絶しては大変だから事前に架け替えして欲しいと再三再四当局へ陳情して来たにもかかわらず、予算がないという口実の下にそのまま放置されてきたもので、地方民はどうせ壊れてしまわねば架け替えせぬ橋ならこの際壊れてしまった方が良いかもしれぬ、とあくまで架け替えを要望している」

  橋脚の腐朽は思った以上にひどく、暫定的に仮橋を架ける計画でしたが、戦時中だったため鉄材などは統制によって調達が難しい状況でした。昭和14年5月19日付「三戸新聞」は「腐朽甚だしく、遂に陥没して通行禁止となった国道4号線住谷橋の復旧に大わらわでいる三戸土木派出所では、穂積組の好意により目下応急工事を施行しつつあるが、人と自転車だけは今明日中に通行ができ、車馬は遅くも今月末までには通行できる予定である。尚、災害復旧で査定を得ることになれば、鉄筋の関係で木橋にされるため、鉄筋に余裕がつくまでここ暫く腐れ橋でも我慢し、機会を見てコンクリート橋に架け替えするよう大運動を起こす模様である」と伝えています。

  翌15年9月にも三戸地方は大水害に見舞われます。住谷橋は再び流失、東北本線も諏訪の平駅付近で立ち往生し、500余名の乗客が被害を受けるという事態が起きます。
その7年後の昭和22(1947)年8月1日夜、岩手県二戸郡一戸町、福岡町を中心に降り始めた豪雨は、2日から三戸郡下の馬淵川や熊原川、猿辺川等を氾濫させ、3日午前2時頃増水量は最大に達し、住谷橋や熊原橋、久保橋等が流失します。住谷橋には水面すれすれに仮橋が架けられますが、それ以前は両岸からワイヤーロープを張った渡し船が出ていました。8月6日付の『東奥日報』は「橋、道路に打撃 三戸郡の水害数千町に及ぶ」という見出しで、その様子を詳細に伝えています。

  それから約10年が経過した昭和31(1957)年3月18日午前5時頃、雨と雪融けによって馬淵川が増水し、住谷橋は橋脚をさらわれて中央部の橋げたが陥没します。このため、青森、八戸から岩手県方面をつなぐ県境の車馬の交通は完全にストップし、三戸駅の乗降客は馬淵川鉄橋を渡り、辛うじて徒歩連絡をすることになりました。翌19日朝午前7時過ぎ、全長63メートルの住谷橋はついに流失、三戸町と三戸駅間唯一の交通路にあたる梅泉橋も激しい水勢のため危険な状態となります。このため松尾三戸町長、工藤名川町長、馬場南部村長らは今後の復旧対策について20日に県当局へ陳情、善後策を講ずることになります。三戸中心の南部バスは交通途絶のため、とりあえず県境青岩橋~目時駅間の道路を応急修理し、20日朝から平常通りに定期バスが運行できるよう全力をあげました。

写真2:住谷橋落成式

渡橋式(昭和32年7月15日付「東奥日報」)

(東奥日報社提供)

  このような経緯の下、昭和32年7月に住谷橋はついに鉄骨で橋脚のないアーチ型の橋として完成します。7月15日付「東奥日報」は3万人の見物客で賑わう住谷橋の渡橋式の模様を、次のように伝えています。「住谷橋は昨年3月18日流失後、総工費5千3百万円を費やし最近完工、この完工渡橋式は13日新橋北側広場に仮設された式場で挙行、山崎知事、大島県議会議長、石森県土木部長、平野善治郎氏ら関係者5百人が出席して古式ゆかしい渡橋式を行った」
  渡り初めは豊川の齊藤鶴松さん(79)、下田の和田弘さん(67)、目時の熊沢三太郎さん(70)の3家族3夫婦が行い、午後3時から三戸高等学校の講堂で協賛会主催による盛大な祝賀会が行われます。余興として三戸町婦人会の仮装行列や斗内の獅子舞、南部村正寿寺の駒踊りが繰り出し、近在から多くの人出もあって、終日住谷橋デーの観だったといいます。

写真3:住谷橋(1961年)

昭和32年7月に完成した住谷橋

(佐藤順一氏所蔵のアルバムから)(1961年)

  昭和32年7月13日付「デーリー東北」は「三戸町に新名所 きよう盛大に落成祝賀会 東北一を誇る住谷橋」という見出しを掲げて、その効果を次のように説明します。今後は流失の恐れはなく、県南地方の交通や経済はますます発達し、八戸の豊富な生鮮魚介類は短時間に自動車で岩手県や秋田県へ運ばれることになります。また、両県の物産は青森県に直送されることになり、三県の経済や文化面における交流が一層強くなります。堅牢で優雅なアーチ型孤形で白銀色の塗装が施された住谷橋は、情緒豊かな元木平の松並木や勇壮な名久井岳、また昔を偲ばせる古城趾城山の山水の自然美とよく調和し、三戸町の名所の一つとしてその偉容を偲ばせています。

    [広報さんのへ 2009年5月号(No.573) 三戸近代史(小泉 敦)]

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更新日:2019年12月10日