黄金橋

  南部家の家史や「祐清私記」などによれば、今から六百数十年ほど前のこと、宗家南部氏の中興の大業を成し遂げた十三代南部守行の父、遠江守政行(十二代)の時だった。南部政行は幼名を六郎と称したほど軍忠武にすぐれ、また和歌をたしなみ「筑波集」に

    薪取人や 山路に入ぬらん 船引つなぐ 雪の朝川

と詠み込まれるほどだったという。

ある時、京都に参上した折、将軍足利義満の北山御所のあたりで、春の夕暮れだというのに、秋に鳴くはずの鹿の鳴き声がするので将軍は諸将に「春鹿」の題を与え和歌を詠ませた。政行は、

    春霞 秋立つ霧に まがわねば 思い忘れて 鹿や鳴くらん

と詠んだ。将軍に献上すると大そう感心してその和歌を朝廷に奉ることになった。

政行の和歌を読んだ天皇は、その秀歌ぶりに感嘆し、ほうびとして政行を左近衛少将に任じ、宝器”松風”を名付けられた硯(すずり)を下賜したと伝える。

また勅許を得なければ橋の欄干に擬宝珠を飾ることはできなかったが、あわせてこの勅許を得たので、三戸城下の橋に擬宝珠を飾ることができた。この擬宝珠が余りにも立派に光り輝いて見えるので、城下の人々はこの橋を「黄金橋」と呼んだという。

      (デーリー東北新聞 1989年10月1日 南部ふるさと探訪 歴史とロマン より)

黄金橋の絵

江戸時代制作の『三戸御古城之図』に黄金橋が描かれている。

写真1:明治天皇御巡幸

1881(明治14)年8月24日の明治天皇巡幸時に描かれている黄金橋ですが、擬宝珠(ぎぼし)付きの優雅な反り返り造りです。

(三戸大神宮所蔵)

  黄金橋の起源について、次の言い伝えが残されています。

  時は、動乱の南北朝時代にさかのぼります。南朝の家来として信任を得ていた三戸南部氏は、後村上天皇から特別な恩賞を賜りました。その恩賞とは、「皇居に架かる橋と同じものを造っても良いという許可」でした。天皇家と同格の建物を造れることは大変な名誉であり、南部第12代の政行は早速、領内の三戸へ橋を造りました。政行は橋を造る際、欄干(てすり)に金銀をちりばめた装飾を施したとされ、この橋を通った人は、そのまばゆいようすから「黄金橋」と呼ぶようになりました。
  この伝承を裏付ける資料は発見されておりませんが、黄金橋の伝説は、南部一族と南朝天皇との結びつきを示すこととして、古くから語られてきたことがうかがえます。


  黄金橋に関する最も古い資料は、岩手県盛岡市にあります。
盛岡の市街地を流れる中津川に架かる上ノ橋と下ノ橋の欄干には、青銅色の古い擬宝珠が合計36個付いており、それぞれに慶長14年(1609)、16年(1611)、17年(1612) の銘が確認されます。このうち、慶長14年の擬宝珠は、黄金橋の擬宝珠を鋳直して(再利用)取り付けたと江戸時代の記録に書かれています。このことから、同年以前から黄金橋はあったと考えられます。また、記録では、擬宝珠が取り外された三戸の黄金橋には、後に鉄製の擬宝珠が代わりに付けられたとされます。現在、三戸町立歴史民俗資料館で所蔵する黄金橋の青銅擬宝珠(県重宝)は、南部第27代の利直が元和 9年(1623) に造り直したものと伝わっています。

      [広報さんのへH30年1月29日 No.678  さんのへ今昔物語  より]

写真4:青銅擬宝珠

三戸城温故館に県重宝史料に指定されている青銅擬宝珠(ぎぼし)が収蔵されています。元和九年の擬宝珠。「木金橋」と書かれている。

(三戸町立歴史民俗資料館所蔵)

写真2:明治末期~大正初期の黄金橋

 

明治末期~大正初期の黄金橋

(佐藤順一氏所蔵)

写真3:昭和初期の黄金橋

昭和初期の黄金橋

(写真で見る三戸町の百年より)

 

  黄金橋がある三戸は、中世以来から続く「奥州道中(奥州街道)」の延長線上に位置します。奥州道中は、福島県から青森県までを結ぶ最も長い街道であることから、多くの人や物資が行き交う幹線道として使われてきました。このため、街道をつなぐ黄金橋も人々の往来を支える橋として、重要な役目を担ってきました。また、長い歴史の中では、有名な人物たちもこの黄金橋を渡っています。
天明8年(1788) には、旅行家として有名な菅江真澄、幕末には維新の立役者となった吉田松陰、明治時代には明治天皇が2度に渡って通行されています。
  このように、古くから街道を結ぶ橋として多くの人に使われてきた黄金橋ですが、洪水のたびに橋が壊れ、あるいは流失し、幾度となく架け替えがなされてきたと伝えられています。
江戸時代に書かれた資料によると、文化3年(1806)、弘化2年(1845)、文久2年(1862) にそれぞれ、黄金橋の修復や架け替えをしたとの記録があり、このことについて当時の人は「山川故少雨ニモ大水出、橋流」と書き記してします。これは、「黄金橋が架かる熊原川は洪水になりやすく、これが原因で橋が流れてしまう」という意味です。

写真5:黄金橋(1961年)

昭和36(1961)年当時の黄金橋

(佐藤順一氏所蔵)

写真6:再現された黄金橋の擬宝珠の欄干

鉄筋コンクリート造りの黄金橋は、昭和50(1975)年12月に補修工事が行われて、鉄製の架橋となりました。これによって、それまで橋の両脇に設置されていた鉄製の高い外灯に替わり、戦時中に供出されていた擬宝珠(ぎぼし)8個が復元されました。

(東奥日報社提供)

写真7:黄金橋(2009年4月撮影)

黄金橋(2009年4月)

 

  繰り返される洪水によって、架け替えがなされてきた黄金橋でしたが、昭和7年(1932) に鉄筋コンクリート造の橋として生まれ変わります。当時この地方では、同じ構造の橋はほとんどなく大変珍しいことから、最先端技術を取り入れた黄金橋を一目見ようと、多くの人が三戸町を訪れたと言います。
洪水に強い橋となって約80年の間、国道・県道の交通を支えてきましたが、老朽化による寿命を迎えたため、平成29年12月、より強度を増した現在の橋へと架け替えられました。

      [広報さんのへH30年2月26日 No.679  さんのへ今昔物語  より]

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更新日:2019年12月10日