唐馬の碑と馬暦神社

馬暦神社

馬暦神社

  江戸時代、幕府は馬の改良目的で西洋馬の輸入を行ったことがある。8代将軍徳川吉宗は特に熱心で、9度にわたって28匹を輸入したという。吉宗は、オランダ人に命じて、ペルシャ馬28匹を購入。各地へ種馬として飼育するよう指示し、うち1匹が三戸の住谷野牧で飼われることになった。しかし、改良は上手くいかないまま死んでしまった。

  馬の亡きがらは埋葬され、かたわらに墓じるしとして「三葉の松」が植えられた。ところが、どういう訳か、その松の枝は不思議と南側(一説には西)にしか伸びていかないため、人々は馬が故郷のペルシャを慕っているのだと思った。そこで、馬の飼育者であった石井玉葉が供養のために、馬頭観世音を建立した。これが「唐馬の碑」である。以来、馬に関わる者の崇敬を集めるようになり、社が建立された。

  盛岡藩主の利剛が、領内巡検で三戸を訪れた際、この社を見学したとの伝えがある。

 

所在地:三戸町川守田字下比良19

所有者:三戸町

唐馬の碑(正面)

正面:「寛保三年癸亥天、奉新造馬頭観世音、二月十七日」

唐馬の碑(右面)

裏面:「から花の陸奥に散る春砂哉 子の花や住谷に開く春の駒 石井玉葉」

側面:「異国春砂追善、鹿毛二白九歳、長四尺九寸五分」

  現在は「馬暦(ばれき)神社」と呼ばれているが、近代の史料によると、「馬力神社」と呼ばれていたようである。明治22年に社を再建した際の棟札には、馬力神社の記載が見える。

  いつから、「馬暦」となったかは判然としないが、明治35年の遷宮を記録した棟札には、馬暦神社と記載されているため、この頃に現在の呼び名になった可能性がある。

  また、社の位置は変更されていることが棟札の記載から確認される。

本殿(内部)

本殿(内部)

馬力神社(明治時代)

馬力神社(明治時代)

唐馬の碑

唐馬の碑(明治時代)

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更新日:2019年12月10日