三戸城の歴史

― 戦国末期から近世初頭の様相 ―

 

三戸町教育委員会 野田 尚志

1 はじめに

中世戦国の頃、全国の領主は、領土拡大と自領防衛のために優れた城郭を建造し、そして発展させてきた。本県においても、この頃に築かれ、又は改修された城・館跡は多く、その数は数百件に上る。戦国時代の末には、領主権力の高まりとともに城の構造は大きく変わっていき、防御性と階層性が融合する城へと姿を変えていった。

三戸城は、北東北における戦国の開始期から終焉までに営まれたところであり、上述した変遷を辿ることができる要素を持った城と言える。一族一門が並列した連合体としての中世から、中央集権化となる近世武家社会の構造へと変化する端境期の様相を探る上で、当城跡は多くの貴重な情報を有していると考える。

2 伝承の三戸城

伝承では、1539年(天文8)南部晴政の代に、居城としていた本三戸城(南部町聖寿寺館跡)が家臣の赤沼備中の放火により焼失(『系胤譜考』所収「下斗米家譜」)、その後に築かれたものとされている。1590年(天正18)南部信直の代に、「豊臣秀吉朱印状」(盛岡南部家文書)によって当城が居城と定めている。1591年(天正19)の九戸一揆の鎮圧後は、九戸城が福岡城(岩手県二戸市)に回収され、ここが三戸南部氏の居城となった(浅野家文書)。慶長の頃、盛岡城が一応の完成となり居城となるものの元和期(1613~1623)に起こった洪水で盛岡城が破損したため、当主利直の命により三戸城は築直しが行われ、再び居城となる。1633年(寛永10)、盛岡城(岩手県盛岡市)の整備が完了し正式な居城と定められことで、三戸城は居城としての役目を終え以降は城代が置かれる。

3 城跡の地理的環境

三戸城跡は三戸市街地の中心に位置し、城跡の西側に流れる熊原川と北東側に流れる馬淵川の浸食によって形成された河岸段丘上にある。城跡の標高は、最も低い法裾の地区で約35~40m、最も高い主郭で約131mを測る。

三戸城跡を含む当地域一帯は、名久井岳を中心に数百万年前から隆起したと考えられている。城跡東側傾斜地の露頭した地層からは、海棲化石が大量に発見されている。

当該城跡から馬淵川を挟んで北東方向に約1.5kmの地点には標高615mを測る名久井岳がそびえ、麓の泉山集落には泉山館跡、馬淵川を挟んだ対岸には梅内館跡、また、熊原川を挟んだ対岸の段丘上には川守田館跡がある。この他、周囲にそびえる段丘の南端側(岩手県境)には目時館跡、東端側(南部町)には赤石館跡が位置しており、同時代に営まれた館跡と伝えられている。

明治初頭に行われた鉄道建設(東北本線)で、三戸城跡の東北側の台地は削平され、東西方向に分断されている。

 

 

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更新日:2020年09月16日