「三戸城跡」が国史跡に指定されました

国史跡指定のお知らせ!!

   三戸町教育委員会では、平成16年度より「三戸城跡」の歴史的価値を明らかにするため、考古学・歴史学・地質学による総合調査を実施し、令和3年度、国に対して「三戸城跡」の国史跡指定について意見具申を行いました。

   これを受けて、令和3年12月17日に開催された国の文化審議会において、「戦国末期から近世初頭における北東北の築城技術を知る上で重要」であるとして、「三戸城跡」を国史跡に指定するよう文部科学大臣に答申されました。

   令和4年3月15日の官報告示により「三戸城跡」が正式に国史跡に指定され、三戸町に初の国史跡が誕生しました。

 

町長のコメント

   令和4年3月15日付けの官報告示により、「三戸城跡」が国の史跡に指定されました。

   「三戸城跡」は、戦国時代に北奥羽一帯を治めた三戸南部家の拠点であったことから、重要な歴史遺産として町民の心のよりどころとなっております。このたびの国史跡指定の報せに触れ、大きな責務を果たした想いと同時に、この上ない喜びを感じています。

   今後は、「国史跡三戸城跡」の適切な保存と継承のための体制づくりを推進するとともに、城跡の歴史を広く内外に発信しながら、景観の整備に努めてまいります。また、地域経済の活性化につなげるよう観光的な魅力を高め、全国のお城ファンに楽しんでいただけるような取り組みも進めてまいります。

  つきましては、今後とも皆様のご理解とご協力を賜りますようお願い申し上げます。

三戸町長  松尾 和彦

 

指定の種別:史跡

指定等の名称:三戸城跡(さんのへじょうあと)

所在地:青森県三戸郡三戸町大字梅内字城ノ下

指定対象面積:316,027平方メートル

 

 

三戸城跡上空写真(奥の山は名久井岳)

三戸城跡の歴史概要

  三戸城跡は、三戸町の市街中心部に位置しています。馬淵川と熊原川の浸食によって形成された標高約131メートルの河岸段丘上に築かれ、城下との高低差は約90メートル、四方は名久井岳や奥羽山脈に連なる丘陵に囲まれる天然の要害となっています。

  三戸城跡は、室町時代後期から江戸時代初頭まで三戸南部家の居城であったと伝えられています。江戸時代の史料『系胤譜考』によると、天文8年(1539)南部晴政の代に、居城としていた本三戸城(現南部町・聖寿寺館跡)が家臣の放火により焼失したため移転したとされています。しかし、近年の研究では、南部家の勢力拡大に伴い、三戸が地勢的に有利である点や権力に見合った大規模城郭の必要性などにより移転したとする見方もされています。

  天正18年(1590)、小田原攻めに参陣した26代当主南部信直は、豊臣秀吉から「南部内七郡」の領有を認められますが、この時、三戸城が正式な居城(本城)に定められていることが『豊臣秀吉朱印状から確認されます。

  その後、三戸南部家の居城は福岡城(二戸市)、盛岡城(盛岡市)へと移りますが、三戸城は残され城代が置かれます。また、貞享年間(1684~88)の城代廃止に伴い古城となってからも、御掃除奉行が設置されるなど、江戸時代を通して城は管理が続けられました。

 

【主な年表】

1539年  本三戸城(聖寿寺館)が焼失。新たに三戸城を築城する。

1582年  南部晴政・晴継が死去。田子信直が第26代南部家当主となり三戸城へ入城する。

1590年  南部信直、宇都宮にて豊臣秀吉より所領を安堵され三戸城が正式な本城となる。

1591年  九戸一揆発生、同年鎮圧。九戸城を福岡城に改修し南部信直の居城とする。

1592年  南部領内の諸城を破却(破壊)する。

1597年  南部信直、嫡子利直に命じ不来方(盛岡)に築城を開始する。

1599年  南部信直が福岡城で死去。利直が第27代南部家当主となる。

1600年  和賀忠親が和賀郡で一揆を起こす(岩崎一揆)。

1601年  南部利直、岩崎一揆を鎮圧する。

1614年  大坂冬の陣、南部利直が騎馬140、兵5400を率いて参陣する。

1615年  盛岡城が完成する。

1618年  この頃、盛岡城が洪水により破損。南部利直、再び三戸城を居城とする。

1619年  三戸城築直しをはじめる。

1620年  三戸城の主殿が完成。同年に八戸家当主清心尼が訪れる。

1632年  南部利直、江戸にて死去。南部重直が第28代南部家当主となる。

1633年  この頃、盛岡城が完成する。以降、三戸城は城代の管理となる。

1684年  城代廃止に伴い代官所が設置。三戸城は城の役目を終える。

保存に向けた取り組み

平成16年度  三戸城跡の保存地区選定のための試掘確認調査を開始

平成25年度  保存地区選定のための試掘確認調査を終了

平成26年度  三戸城跡の遺構精密調査開始

平成27年度  城山管理運営委員会へ城跡の保存へ向けた説明会(4/23)

                  町文化財審議委員へ城跡の保存へ向けた説明会(6/11)

平成29年度  第1回三戸城跡保存整備検討委員会(7/11)

                  第2回三戸城跡保存整備検討委員会(11/10)

平成30年度  第3回三戸城跡保存整備検討委員会(5/29)

                  第4回三戸城跡保存整備検討委員会(11/29)

令和元年度  第5回三戸城跡保存整備検討委員会(7/23)

                  第6回三戸城跡保存整備検討委員会(11/18)

令和  2年度  第7回三戸城跡保存整備検討委員会(5/25)※書面審議

                  第8回三戸城跡保存整備検討委員会(11/10)掘調査総括報告書作成

                  三戸城跡発掘調査総括報告書刊行(3/24)

令和  3年度  三戸城跡国史跡指定意見具申書提出(8月)

                  文化審議会答申(12/17)

                  官報告示により指定(R4.3/15)

 

調査成果

   三戸城跡の調査は、平成16年度から令和元年度まで延べ15回に渡って行われてきました。調査は発掘作業が中心でしたが、他にも絵図・古文書といった史料の収集整理や石垣石材産出地の特定をするなど、考古学だけではなく歴史学や地質学を総合して調査に取り組んできました。

   調査の結果から三戸城跡は、出土した陶磁器の年代により15世紀頃から城として機能していたことが判明し、南部家の本城に位置付いてからも数回に渡り大きな改変を受けながら17世紀初頭までに現在の曲輪(※)配置になったとみられています。特に石垣は構築方法などから、奥州仕置後と元和期(1614~23)に大きく分けられることが確認されています。なお、大門跡からみつかった門礎石の構造は、奥州南部領の城郭では当時最大規模の城門であったことが判明しており、南部家の高度な築城技術と権力を示す遺構として注目されています。

   以上のことから三戸城跡は、戦国時代から江戸時代初頭にかけての北東北の城郭史を考える上で重要な城跡と言え、後世に残すべき歴史遺産と評価されます。

※曲輪とは:平らな空間として区画された整地のこと。外縁には堀や土塁・石垣といった防御機能も施される。

 

発掘調査で検出された遺構

水路状石組遺構(鍛冶屋敷跡)

井戸跡(奥瀬与七郎屋敷跡)

門礎石(大門跡)

本丸跡石垣

この記事に関するお問い合わせ先

教育委員会事務局

〒039-0198
青森県三戸郡三戸町大字在府小路町43
電話:0179-20-1157 ファクス:0179-20-1114

更新日:2022年03月22日