会津若松市とのつながり

戊辰戦争から斗南藩の誕生

~奥羽越列藩同盟と明治維新~

   徳川幕府は開幕以来「鎖国」の体制を維持してきたが、1853年(嘉永6)にアメリカ合衆国が派遣したペリーの来航によって、幕府の外交方針は転換させられ、翌1854年に日米和親条約が締結された。これを皮切りに、以後、諸外国との国交が次々に結ばれ、多くの異人たちが日本に訪れるようになった。開国してから間もなく、文化や社会的概念の違いによる異人とのトラブルが各地で続出する中、外圧に対する不安から攘夷運動が盛んになり、遂には討幕運動として全国に拡大。慶応4年1月3日、京都の鳥羽・伏見で新政府軍と旧幕府軍の武力衝突が起き、戊辰戦争が始まる。北方の諸藩もこれに呼応し、奥羽越列藩同盟が結ばれ、盛岡藩も新政府へ対抗する姿勢をとった。日本全土を戦いの渦に巻き込んだ戊辰戦争は、新政府軍の勝利で幕を降ろし、1868年(明治元)、戦後処理による制裁が各藩に行われた。盛岡藩主南部利剛は奥羽越列藩同盟に加わったことで謹慎を命じられ、藩領20万石は政府直轄地として没収。これに加え、秋田戦争の責任を取るため、家老楢山佐渡など藩の重臣には刎首(ふんしゅ:打ち首後さらされること)の命が下った。更に、藩へは7万両の賠償金支払いが命じられた上、藩主はまだ幼い嫡男の利恭へと替えられ、白石(宮城県)へ転封させられた。
※(二戸・三戸・北郡は、黒羽藩(藩主大関、栃木県)の取締)

斗南藩の誕生と藩士の移住

斗南藩の領地図

   明治2年11月、藩主容保の嫡男である容大に家名存続が許され斗南藩が再興。立藩の地は、斗南となり、旧会津藩士たちは海路と陸路に分かれ移住を始める。明治3年4月17日、東京で謹慎を解かれた者たちが第一陣として品川を出港。これを嚆矢として、陸と海から次々と出発、同年の10月まで2千8百戸、延べ1万7千人余が斗南の地へ移り住んだ。この移住直後の様子が三戸代官所御物書役の石井久左衞門の「萬日記」に記されている。これによると、「三戸には、明治3年4月20日に会津人が到着、当面は宿のない人を養うため、家毎に5人~10人を割当てる」となっており、移住による混乱ぶりが分かる。移住した者の多くは、毎日の食べ物にも事欠き、多くの人が亡くなったという。この惨状を憂えた三戸町人は、基金を募り救貧所を建設して会津人を庇護した。

三戸にある旧会津藩士の資料

最初に建立された白虎隊供養碑

   三戸町同心町の観福寺には、戊辰戦争中に会津の飯盛山で自刃した「白虎隊」の供養碑がある。建立したのは斗南藩・三戸に移住した旧会津藩士の子息大竹秀蔵である。秀蔵は移住して間もない明治4年1月13日、母の一周忌に合わせて観福寺に供養碑を建てるが、なぜかこの碑の正面には、飯盛山で自刃した白虎隊士17名の名前が刻まれた。現地の飯盛山に供養碑が建てられたのは、自刃の悲劇からしばらくたった明治14年以降と言われており、三戸の碑の方が随分古いことになる。

杉原凱先生之墓(県の教育界を発展)

   文化3年(1806)に会津藩士の子として生まれた外之助(通称)は、若くして私塾を開き、會津藩の教育者として教鞭をふるう。1840年頃、外之助は日新館の教授となり、藩の人材育成に取り組む中、戊辰戦争が勃発。戊辰戦争後、斗南藩成立に伴って外之助は三戸に移り住むも、明治4年に突如として亡くなる。外之助には多くの弟子がいたが、その弟子たちはやがて青森県の教育界へと進出、県内の近代教育の発展に尽力した。明治19年、外之助を慕う沖津醇(青森師範学校長)や渡部乕次郎をはじめ、多くの弟子が集まって、師を弔うための墓を三戸大神宮境内へ建立した。

招魂碑(旧会津藩士の慰霊祭)

   会津藩の人々は、幕末から明治の動乱にかけて、多くの人が亡くなっている。戊辰戦争によって亡くなった者、敗戦後の斗南への移住に伴って亡くなった者、西南戦争に巻き込まれて亡くなった者、他にも、困窮によって命を絶たれた者や名誉を守るために亡くなった者など、実に多くの藩士とそれに関わる人々が志を半ばにしている。これを受けて、三戸に移り住んだ旧会津藩士は、全ての殉難者の供養をするため、三戸町の悟真寺に招魂碑を建立した。碑の題字を書いたのは松平容大(旧斗南藩主)、文を選んだのは南摩綱紀(東京高等師範学校教授)、本文を書いたのは渡部乕次郎(三代目三戸小学校校長)である。碑の文中には、「乱平ぎて後、藩執政萱野長修、衆に代わって屠腹」とあり、戊辰戦争の責任を一身に背負って切腹した家老萱野を偲んでいることが書かれている。

萱野長修(権兵衛)位牌

   萱野家は会津藩の侍大将を務める名家で、父の長裕の代に家老に取り立てられた。長修は1863年(文久3)に家督を継いで藩主松平容保に仕えた。1865年(慶応元)、家老に任じられて以降は、容保の側近としてその補佐役を務めることとなった。1868年(慶応4)戊辰戦争が起こり、会津が降伏すると、長修は他の会津藩士と共に東京へ送られ謹慎の身となった。戦後、新政府は容保に罪を問おうとしたが、長修は「主君には罪あらず。抗戦の罪は全て自分にあり」と述べて主君をかばい、戦争の責任を一身に背負って、明治2年、自刃に果てる。三戸町の悟真寺位牌堂には、移住者によって納められたものか、この萱野の自刃を偲ぶための位牌がある。

白虎隊の供養費(明治4年建立)

最初に建立された白虎隊供養費(明治4年)

杉原凱先生の墓(明治19年建立)

杉原凱先生の墓(明治19年建立)

会津藩殉難者招魂碑(明治27年建立)

会津藩殉難者招魂碑(明治27年建立)

萱野権兵衛位牌

萱野権兵衛位牌

更新日:2018年08月27日