三戸城址発掘調査事業

(事業目的)
 三戸城跡は、中世において三戸南部氏が領国支配を行った拠点といわれております。当町にとって重要な歴史的背景をもつ当城跡の発掘調査を実施し、保存と活用に努めます。

(事業内容・計画等)
 当地域において重要な遺跡である三戸城跡の保存状況を発掘により確認し、今後の保存地区の選定・史跡指定を目指した保護・整備を行うため、国と青森県から補助金交付を受けて 調査を実施します。
(三戸城の歴史)
 三戸城は、伝承によると天文8年(1539)に、領主晴政が居城としていた本三戸城(聖寿寺館跡)が家臣の放火により焼失、その後、この地に築いたものと伝えられています(下斗米家譜)。 天正10年(1582)に領主晴政と嫡子の晴継が相次いで没すると、跡目を巡った論議が一族間で交わされますが、三戸南部氏直系として最も近い田子信直が三戸南部氏の家督を継ぎ三戸城へ 入城します。

 天正18年(1590)に小田原へ参陣した信直は豊臣政権から領内の支配を認められますが、同時に、領内諸城の破却(破壊)と家臣の妻子を三戸へ集住させることが命じられます (豊臣秀吉朱印状)。近世から伝わる三戸城の絵図をみると、城内と城下には屋敷割りがなされており、その屋敷ごとに家臣達の名前が記載されています。これは、豊臣政権が行った 「一大名一城制」を示す重要な資料として考えられております。

 天正19年(1591)に入ると、反対勢力であった九戸氏が政実を筆頭に一族をまとめ上げ、信直へ決戦を挑みます。同年9月、「九戸の乱」が勃発、両軍の戦いが激化する中で信直軍は 苦戦を強いられますが、信直は奥州仕置軍を味方に付けこの戦いに勝利します。乱の平定後、奥州仕置軍を率いた蒲生氏郷らにより、三戸城は九戸城(福岡城)と共に近世城館の シンボルといえる石垣を持った城へと改修されます。

 豊臣の重臣である浅野氏の薦めで居城を不来方(盛岡市)へ移したことで、三戸城は古城となりますが、寛永10年(1634)に盛岡城が完成された後も、三戸城は石垣の補修や御掃除奉行が 設置されるなど、近世を通じて管理がなされます。
(現在の進捗状況)
 平成16〜21年度までの調査では、城内の主要地域において保存状況の確認を行いました。調査では、綱御門(表門)と鍛冶屋御門(裏門)の石垣の保存状況の確認をしたところ、 崩落したと思われていた地区から新たに崩れていない石垣を発見。また、鍛冶屋敷跡から鍛冶工房跡を確認したことで、伝承と符合する結果を得られました。
(今後の予定)
 平成22年度以降は地下に埋蔵している遺構について本格的調査を開始します。今年度は城内でも保存状況の良好な鍛冶屋敷跡を重点的に調査し、城内遺構の役割を究明します。
(お問い合わせ先)
○三戸町教育委員会事務局
  電話:20−1157

○三戸町歴史民俗資料館
  電話:22−2739